三浦 優希2021年08月26日 13:33
○文章を書くことについて思うこと
みなさんこんにちは!いかがお過ごしですか?
今日は、「文章を書くこと」について、僕なりの考えをお話ししたいと思います。
まず最初に皆さんにひとつお伝えしたいことがあります!
いつも僕の文章を読んでいただき本当にありがとうございます!本当に本当に嬉しいです。
僕は、僕が書いた文章を読んでいただくということは、皆さんの時間をもらうこと、という認識をしています。そしてこれは、本当に特別なことです。
実は、今回この「文章を書くことについて」を考えた時、とある記憶がフラッシュバックしてきました。今思うと、それは文章と向き合うきっかけになる原体験のようなものだったのかもしれません。
僕がおそらく小学3年生か4年生の頃です。当時の僕は「生意気でいたずら大好き」という、いわゆる「くそがき人生」を謳歌していました。
ちなみに、普段からずっとそんな子だったわけではありません。授業もしっかり受けていたし、同級生と関わる時はどちらかというと「マジメ」に分類される子どもだったと思います。
ただ、自分よりも年上のお兄さん達と遊ぶ時に限っては、「生意気坊主パワー」が存分に発揮されていました。ちなみに年上と言っても、学年が1.2個上というわけではなく、関わる人たちは主に10歳近く年上の人たちでした。
なぜかというと、当時から父親が早実アイスホッケー部のコーチをしており、高校生や大学生に混じって一緒に練習させてもらうことがたくさんあったからです。
そして僕は、当時から、年上の兄ちゃん達と遊ぶ(ホッケーをする)時間が本当に大好きでした。
防具を着替える時もロッカールームに勝手に入っていたし、現役の高校生のみんなに対して当たり前にタメ口で話していたし、高校から始めた初心者の人に「こうやるんだよ!」と勝手に教える側にまわったり、初心者でキーパーに成り立ての方に対してゴールを決めて目の前ではしゃいだりと、とにかく今思うと大変失礼極まりない言動をいたずら心で平気で行うような悪ガキでした。(いやー今思うと本当にすごいことしてましたごめんなさいっ。笑)
ただ、当時のお兄ちゃん達が本当に優しくて、そんな僕の行動を一緒になって笑ってくれたり、僕の知らない言葉や知識をたくさん教えてくれたり、僕と一緒にいたずらに協力してくれたりと、たくさん可愛がってもらっていました。
姉と妹に囲まれて育った自分にとって、早実で年上のお兄さん達と触れ合う時間は新鮮で、本当に楽しいものでした。
そんな中でも特に仲良しだった(仲良くしてくれてた)お兄ちゃんがいました。仮にK君とします。
K君は、高校からホッケーを始めて、大学進学後もアシスタントコーチとして早実に戻ってきたり、他のチームでもユース世代を教えたりしている人でした。遠くで行われるホッケーキャンプにも2人で一緒に参加し行く(というより面倒を見てもらう)くらい、お世話になっていた人でした。
さて、そんなK君に実際にホッケーキャンプに連れて行ってもらった時の話です。(今でも鮮明に覚えてる) 当時のK君は大学生でした。
K君と一緒にいる時に、僕がホッケーキャンプの記録をノートに書く機会がありました。
横で僕がノートに文字を書いている姿を見ていたK君は「優希はもっと字も文章も綺麗に書かなきゃ〜」と言ってきました。
「自分の日記だからよくない?なんで綺麗に書かなきゃいけないの?」と僕が尋ねると、K君はこのようなことを言いました。「文字や文章は、周りの人が読むために書くんだよ。だから、読む人のことを想像して丁寧に書くものなんだよ。それに、日記も、いつか自分が将来このノートを見返した時に読めなかったら悲しいでしょう?」
当時の僕は「ふ〜ん。」程度にしか思っていなかったのですが、今思うと、本当に素晴らしいアドバイスをK君はくれていたのだと思います。
そしてこれが、人に見せる文章を作る時に、絶対に手を抜かず最後まで丁寧に仕上げる、と思うようになったきっかけだと思っています。
正直なことをいうと、僕は字を書くことに関しては、かなり下手です。綺麗な字がなかなか書けません。(左利きだからというしょうもない言い訳をいつもしています) 気を抜くと雑になってしまうことも多いです。
ただ、文章を作るとなったときは、手を抜いて完成させることは絶対にありません。必ず、最後まで丁寧に仕上げることを心がけています。
「書く」という行為の大部分が、ペンと紙からデジタル上にシフトしたことも要因ではありますが、noteを書く際も、報告メールを作成する際も、今まで中途半端な完成度で公開したことはないと自負しています。
文章を作るとは「人に読んでもらう」=「人の時間をいただく」ことであり、読んでくださる人たちにとってその時間が充実して楽しいものになるよう、書き手である僕は全力を尽くす、
というポリシーがあります。
「文字や文章は人のために、そして、巡り巡って自分のためにある」という、当たり前だけど、なかなか気づけないことを当時小学生の僕に教えてくれたK君には、心から感謝しています。
少し前に読んだ本に、山田ズーニーさんが書かれた「伝わる・揺さぶる! 文章を書く」があります。
この中で筆者は、「書き手のものの見方に、読者は敏感だ」と述べています。これには僕も共感で、文章には自然と、書き手の人となりや、性格、思いや思考など、形としては目に見えづらいものが浮かび上がってくると感じています。
書き方の上手い下手に限らず、その人の思いや情熱が乗った文章は、読んでいて「生きている」感じがします。
そんな文章を、僕もみなさんに届けていきたいです。
突き詰めていけば、書くことに限らず「言葉を話す」ことにも同じことが言えると思います。口から出てくる言葉は、「あなたが何者か」を世界に対して伝えます。そして言葉も、「人が聞くためにある」といっても過言ではないかもしれません。
普段当たり前に使用している「言葉や文字」の意味を考えることは、他者を想像することに繋がります。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!
みなさんこんにちは!いかがお過ごしですか?
今日は、「文章を書くこと」について、僕なりの考えをお話ししたいと思います。
まず最初に皆さんにひとつお伝えしたいことがあります!
いつも僕の文章を読んでいただき本当にありがとうございます!本当に本当に嬉しいです。
僕は、僕が書いた文章を読んでいただくということは、皆さんの時間をもらうこと、という認識をしています。そしてこれは、本当に特別なことです。
実は、今回この「文章を書くことについて」を考えた時、とある記憶がフラッシュバックしてきました。今思うと、それは文章と向き合うきっかけになる原体験のようなものだったのかもしれません。
僕がおそらく小学3年生か4年生の頃です。当時の僕は「生意気でいたずら大好き」という、いわゆる「くそがき人生」を謳歌していました。
ちなみに、普段からずっとそんな子だったわけではありません。授業もしっかり受けていたし、同級生と関わる時はどちらかというと「マジメ」に分類される子どもだったと思います。
ただ、自分よりも年上のお兄さん達と遊ぶ時に限っては、「生意気坊主パワー」が存分に発揮されていました。ちなみに年上と言っても、学年が1.2個上というわけではなく、関わる人たちは主に10歳近く年上の人たちでした。
なぜかというと、当時から父親が早実アイスホッケー部のコーチをしており、高校生や大学生に混じって一緒に練習させてもらうことがたくさんあったからです。
そして僕は、当時から、年上の兄ちゃん達と遊ぶ(ホッケーをする)時間が本当に大好きでした。
防具を着替える時もロッカールームに勝手に入っていたし、現役の高校生のみんなに対して当たり前にタメ口で話していたし、高校から始めた初心者の人に「こうやるんだよ!」と勝手に教える側にまわったり、初心者でキーパーに成り立ての方に対してゴールを決めて目の前ではしゃいだりと、とにかく今思うと大変失礼極まりない言動をいたずら心で平気で行うような悪ガキでした。(いやー今思うと本当にすごいことしてましたごめんなさいっ。笑)
ただ、当時のお兄ちゃん達が本当に優しくて、そんな僕の行動を一緒になって笑ってくれたり、僕の知らない言葉や知識をたくさん教えてくれたり、僕と一緒にいたずらに協力してくれたりと、たくさん可愛がってもらっていました。
姉と妹に囲まれて育った自分にとって、早実で年上のお兄さん達と触れ合う時間は新鮮で、本当に楽しいものでした。
そんな中でも特に仲良しだった(仲良くしてくれてた)お兄ちゃんがいました。仮にK君とします。
K君は、高校からホッケーを始めて、大学進学後もアシスタントコーチとして早実に戻ってきたり、他のチームでもユース世代を教えたりしている人でした。遠くで行われるホッケーキャンプにも2人で一緒に参加し行く(というより面倒を見てもらう)くらい、お世話になっていた人でした。
さて、そんなK君に実際にホッケーキャンプに連れて行ってもらった時の話です。(今でも鮮明に覚えてる) 当時のK君は大学生でした。
K君と一緒にいる時に、僕がホッケーキャンプの記録をノートに書く機会がありました。
横で僕がノートに文字を書いている姿を見ていたK君は「優希はもっと字も文章も綺麗に書かなきゃ〜」と言ってきました。
「自分の日記だからよくない?なんで綺麗に書かなきゃいけないの?」と僕が尋ねると、K君はこのようなことを言いました。「文字や文章は、周りの人が読むために書くんだよ。だから、読む人のことを想像して丁寧に書くものなんだよ。それに、日記も、いつか自分が将来このノートを見返した時に読めなかったら悲しいでしょう?」
当時の僕は「ふ〜ん。」程度にしか思っていなかったのですが、今思うと、本当に素晴らしいアドバイスをK君はくれていたのだと思います。
そしてこれが、人に見せる文章を作る時に、絶対に手を抜かず最後まで丁寧に仕上げる、と思うようになったきっかけだと思っています。
正直なことをいうと、僕は字を書くことに関しては、かなり下手です。綺麗な字がなかなか書けません。(左利きだからというしょうもない言い訳をいつもしています) 気を抜くと雑になってしまうことも多いです。
ただ、文章を作るとなったときは、手を抜いて完成させることは絶対にありません。必ず、最後まで丁寧に仕上げることを心がけています。
「書く」という行為の大部分が、ペンと紙からデジタル上にシフトしたことも要因ではありますが、noteを書く際も、報告メールを作成する際も、今まで中途半端な完成度で公開したことはないと自負しています。
文章を作るとは「人に読んでもらう」=「人の時間をいただく」ことであり、読んでくださる人たちにとってその時間が充実して楽しいものになるよう、書き手である僕は全力を尽くす、
というポリシーがあります。
「文字や文章は人のために、そして、巡り巡って自分のためにある」という、当たり前だけど、なかなか気づけないことを当時小学生の僕に教えてくれたK君には、心から感謝しています。
少し前に読んだ本に、山田ズーニーさんが書かれた「伝わる・揺さぶる! 文章を書く」があります。
この中で筆者は、「書き手のものの見方に、読者は敏感だ」と述べています。これには僕も共感で、文章には自然と、書き手の人となりや、性格、思いや思考など、形としては目に見えづらいものが浮かび上がってくると感じています。
書き方の上手い下手に限らず、その人の思いや情熱が乗った文章は、読んでいて「生きている」感じがします。
そんな文章を、僕もみなさんに届けていきたいです。
突き詰めていけば、書くことに限らず「言葉を話す」ことにも同じことが言えると思います。口から出てくる言葉は、「あなたが何者か」を世界に対して伝えます。そして言葉も、「人が聞くためにある」といっても過言ではないかもしれません。
普段当たり前に使用している「言葉や文字」の意味を考えることは、他者を想像することに繋がります。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました!