卯内里奈2024年04月05日 10:07
【卯内ヒストリーの第一弾をこちらにも】
(ヒストリーの全てを投稿ことは出来ないですが、いくつかはこちらにも時差で投稿しますね)
私のようなものが芝居のあれこれを語る資格はない。役作り、なんて大それたことも。
だけど確実に言えるのは、役作りとはセリフをどのような言い方をしよう、と考えることではない。
小学5年生の頃に芸能界に憧れ始め、アパレルブランドのカタログモデルのオーディションに参加するまでに半年間私がやっていたことを思い出した。
学校から帰れば、まずファッション誌を開く。何度も何度も同じ号のファッション誌を1ページ1ページ細かく見る。「モデルになるには」というような小学生の私の手に収まるようなサイズの本を親にお願いして買ってもらい、それも見る。毎日見る。
おやつは我慢する。大好きな、小さめのシュークリームが4つ箱に入ったものを祖母が持ってきてくれても我慢した。11歳にしては苦しい努力だった。笑
当時子供だった私は、"やらなければ"なんて気持ちは一切なかった。1ミリたりとも、やらされている感覚も、任務として向き合うこともなかった。
だって自分がやりたいと見つけたことだったから。幼い頃から常に将来の夢を持っているタイプの子供で、和菓子屋さんになりたいと思えばメニューを思考する専用のノートを作ったり、小説家になりたい時は毎日毎日物語を書いていた。それを友達や先生にも見てもらった。
夢が出来れば人に語り、将来に不安など抱かず、自分はできると信じ込んでいた。それが子供のいいところである。
そして私はその1年後には、読んでいたファッション誌の専属モデルになるのだから引き寄せってあるよなぁと思う。
さて、東京にきて今芝居をしていますが。
今も小学生の頃に戻ったように、毎日家に帰ればすぐ映画を見ている。これは毎日見る、と決めている部分もあるが、もはや見たいから見るので11歳の自分と変わらない。
そして活字を読むことも。こんなものを書いているぐらいだから書くのも好きで、それも小学生の頃の"小説家になりたい"、が残像として31歳の自分にも残っているように思う。もう20年が経っているのか。
生きている全ての時間が芝居の為である。今の自分は確実にそうだ。
でも東京にはそんな人は数えきれない程いる。撮影現場に行っても、オーディションに行っても、ワークショップに行っても、たくさん出会う。みんな努力してるなんて当たり前。ましてや映画を毎日見るとか、脚本を読むとかはみんなしているはず。人に芝居を見てもらうことも。それでも売れない難しい世界。
じゃあ毎日しなくていいんじゃない?というと、それは全然違う。プラスアルファに、何をするかでしかない。
ただ、他の人以上に芝居のことを考えて行動している自信も、心の奥底にあったりもする。ちょっぴり。ちょっぴりだけ。
まだ出来る事もたくさんあるし、今足りていないことは別の努力も考えなければいけないのも分かってはいるけど。今の自分が今の環境で出来る事は精一杯やっていると思う。
それを別にSNSで"こんなに頑張ってますアピール"なんてやらなくていい。せずとも結果で分かる。どんなにアピールしたって結果が伴っていなければ意味がない。行動が伴っていなければ意味がない。誰に対しての何のアピールなんだ、という発信を私は地元にいた頃パフォーマンスのようにしていた。ださい。
そして、
人と競う世界ではあるが、ふと急に、人なんてどうでもいいと思えてきた。
子供の頃の自分の良かった部分はそこにあると気づいた。
人と比べるから頑張れることもそりゃある。焦りも大事。必死に追いつこうと走ることも出来る。
でもそれ以前に、自分が自分を信じて疑わず、そこに向かってよそ見せず走っていくには自分に集中すればいい。あの人にでかい仕事決まっただとか、ちょっと振り返って自分より進んでいない人を探したりだとか、
ださい!!!!!これまたださい!
ださいぞ自分。
全ては過去でも未来でも、他人でもない。
今、ここの、自分が、
どう、あるか。
どう生きているのか。
何が好きで、何を求めて、何を信じているのか。
今、今、今。
楽しいなぁ。
(ヒストリーの全てを投稿ことは出来ないですが、いくつかはこちらにも時差で投稿しますね)
私のようなものが芝居のあれこれを語る資格はない。役作り、なんて大それたことも。
だけど確実に言えるのは、役作りとはセリフをどのような言い方をしよう、と考えることではない。
小学5年生の頃に芸能界に憧れ始め、アパレルブランドのカタログモデルのオーディションに参加するまでに半年間私がやっていたことを思い出した。
学校から帰れば、まずファッション誌を開く。何度も何度も同じ号のファッション誌を1ページ1ページ細かく見る。「モデルになるには」というような小学生の私の手に収まるようなサイズの本を親にお願いして買ってもらい、それも見る。毎日見る。
おやつは我慢する。大好きな、小さめのシュークリームが4つ箱に入ったものを祖母が持ってきてくれても我慢した。11歳にしては苦しい努力だった。笑
当時子供だった私は、"やらなければ"なんて気持ちは一切なかった。1ミリたりとも、やらされている感覚も、任務として向き合うこともなかった。
だって自分がやりたいと見つけたことだったから。幼い頃から常に将来の夢を持っているタイプの子供で、和菓子屋さんになりたいと思えばメニューを思考する専用のノートを作ったり、小説家になりたい時は毎日毎日物語を書いていた。それを友達や先生にも見てもらった。
夢が出来れば人に語り、将来に不安など抱かず、自分はできると信じ込んでいた。それが子供のいいところである。
そして私はその1年後には、読んでいたファッション誌の専属モデルになるのだから引き寄せってあるよなぁと思う。
さて、東京にきて今芝居をしていますが。
今も小学生の頃に戻ったように、毎日家に帰ればすぐ映画を見ている。これは毎日見る、と決めている部分もあるが、もはや見たいから見るので11歳の自分と変わらない。
そして活字を読むことも。こんなものを書いているぐらいだから書くのも好きで、それも小学生の頃の"小説家になりたい"、が残像として31歳の自分にも残っているように思う。もう20年が経っているのか。
生きている全ての時間が芝居の為である。今の自分は確実にそうだ。
でも東京にはそんな人は数えきれない程いる。撮影現場に行っても、オーディションに行っても、ワークショップに行っても、たくさん出会う。みんな努力してるなんて当たり前。ましてや映画を毎日見るとか、脚本を読むとかはみんなしているはず。人に芝居を見てもらうことも。それでも売れない難しい世界。
じゃあ毎日しなくていいんじゃない?というと、それは全然違う。プラスアルファに、何をするかでしかない。
ただ、他の人以上に芝居のことを考えて行動している自信も、心の奥底にあったりもする。ちょっぴり。ちょっぴりだけ。
まだ出来る事もたくさんあるし、今足りていないことは別の努力も考えなければいけないのも分かってはいるけど。今の自分が今の環境で出来る事は精一杯やっていると思う。
それを別にSNSで"こんなに頑張ってますアピール"なんてやらなくていい。せずとも結果で分かる。どんなにアピールしたって結果が伴っていなければ意味がない。行動が伴っていなければ意味がない。誰に対しての何のアピールなんだ、という発信を私は地元にいた頃パフォーマンスのようにしていた。ださい。
そして、
人と競う世界ではあるが、ふと急に、人なんてどうでもいいと思えてきた。
子供の頃の自分の良かった部分はそこにあると気づいた。
人と比べるから頑張れることもそりゃある。焦りも大事。必死に追いつこうと走ることも出来る。
でもそれ以前に、自分が自分を信じて疑わず、そこに向かってよそ見せず走っていくには自分に集中すればいい。あの人にでかい仕事決まっただとか、ちょっと振り返って自分より進んでいない人を探したりだとか、
ださい!!!!!これまたださい!
ださいぞ自分。
全ては過去でも未来でも、他人でもない。
今、ここの、自分が、
どう、あるか。
どう生きているのか。
何が好きで、何を求めて、何を信じているのか。
今、今、今。
楽しいなぁ。