Chiharu Yoshimura2024年01月02日 16:08
(長文)
令和6年能登半島地震を経験された皆様、お見舞い申し上げます。
私も石川県金沢市在住ですので、たくさんの方にお気遣いのメッセージをいただきました。ありがとうございます。家族ともに無事でおります。
昨日、16時過ぎ、大きな地震が発生しました。
発生当時、私は自室で勉強していました。
大きな揺れを感じ、すぐにリビングに向かいました。家族と合流し、外に逃げられるように玄関で揺れが収まるのを待ちました。立っていられないほどの揺れで、座り込んでしまいました。とても怖かったです。
その直後、携帯電話のアラートが大きく鳴り響きました。リビングに戻りテレビをつけると「津波がきます、すぐに高い場所に避難してください」と呼びかけられていました。身の回りのものを取り、すぐに車に乗って、標高の高いエリアを目指しました。16:30頃でした。
車で移動中も、テレビで情報をつけて情報を確認しました。表示された金沢市の津波到着時はあと20分でした。背後の海側が気になって、何度もバックミラーやサイドミラーを確認しました。本当に怖かったです。
金沢の自衛隊駐屯地は比較的標高の高いエリアにあります。17時頃、その近くのドラッグストアで食料品等を購入しました。普段の買い物をしている方もいる様子の方もいらっしゃいましたが、私たちは避難の準備に必死でした。会計の間も揺れ、店員さんが不安そうにレジ業務をされていました。
17:15、津波到着予定時刻が過ぎ、ネット等の情報から、市内に津波が到達したという情報がなかったので、ドラッグストアの駐車場でしばらく様子を見ることにしました。自衛隊も近く、お手洗いも使えるからです。
その後、物資調達の買い物客が増え始め、間もなく商品の購入ができなくなりました。店員さんが謝りながら入店を断っていました。お店のご厚意で入り口付近のトイレを使用することができ、非難の方々で混雑し始めました。
離れて暮らす家族と連絡を取りました。弟家族が初詣に出かけており、神社の境内で動けなくなっていると知りました。なんとか車に戻れないかと祈りましたが、高い場所に避難させてもらえていると聞き、少し安心しました。
18:30頃、店舗が完全に閉店となり、トイレの使用ができなくなりました。
トイレが使えないのでは、ここにいても仕方がないので、移動することにしました。
会社付近に在住のメンバーに連絡したところ、地震直後に会社に様子を見に行ってくれたそうで、会社は問題ないとの連絡を受けました。18:50、私たちは会社に向かいました。
会社の外も中も、壁がひび割れて粉が落ちていました。しかし、水道や電気は使用でき、トイレも使えました。
冷蔵庫の上のレンジや小型スピーカーを床に置いてくれてあり、メンバーの配慮に感謝しました。私たちも少しだけ掃除をし、お湯を沸かしてカップラーメンを食べたました。18:40頃でした。
到着後もたくさんの方からお気遣いのメッセージをいただきました。ありがとうございます。
お仕事図鑑にも出演してくださった株式会社求人の石塚さんはご実家が新潟県柏崎市で、ご家族が2004年に中越地震、2007年に中越沖地震を経験されています。ご経験から、他人事と思えない、とたくさんメッセージを送ってくださいました。
「お水はありますか?」
「大丈夫です、収まりますよ」
「復旧は意外と早いです、大丈夫です」
と何度も励ましてくださいました。
とても心強かったです。
21時頃、大津波警報が津波警報になったことを知りました。
22時頃、SNS等で金沢市内在住の方々の被害があまりないことが伝わってきました。自宅に戻ることを考え始めました。
23時頃、東日本大震災の情報を参考に、地震発生から6時間が経過したので、自宅に戻ることにしました。
23:30頃、自宅に到着し、警戒しながら交代でお風呂に入りました。
避難の荷物を準備して、眠りについたのは1:30頃でした。
寝ている間も揺れましたが、避難に至る程ではありませんでした。
起きると、津波警報が注意報に変わっていました。
ニュースでは被災の様子が映され胸が痛みます。
午後になり、課題の続きをしなければと大学院のサイトに入りました。レポート保存時刻が地震発生時刻と思われます。
忘れられない日時となりました。
改めて、災害は他人事ではないと痛感しました。普段から避難経路や家族との連絡方法の確認の重要性を感じました。
メッセージをくださったみなさま、本当にありがとうございます。
ここから、私にできることを探したいと思います。
もし、大きな力が必要なときは、ぜひご協力をお願いいたします。
長文をお読みいただきありがとうございました。
令和6年能登半島地震を経験された皆様、お見舞い申し上げます。
私も石川県金沢市在住ですので、たくさんの方にお気遣いのメッセージをいただきました。ありがとうございます。家族ともに無事でおります。
昨日、16時過ぎ、大きな地震が発生しました。
発生当時、私は自室で勉強していました。
大きな揺れを感じ、すぐにリビングに向かいました。家族と合流し、外に逃げられるように玄関で揺れが収まるのを待ちました。立っていられないほどの揺れで、座り込んでしまいました。とても怖かったです。
その直後、携帯電話のアラートが大きく鳴り響きました。リビングに戻りテレビをつけると「津波がきます、すぐに高い場所に避難してください」と呼びかけられていました。身の回りのものを取り、すぐに車に乗って、標高の高いエリアを目指しました。16:30頃でした。
車で移動中も、テレビで情報をつけて情報を確認しました。表示された金沢市の津波到着時はあと20分でした。背後の海側が気になって、何度もバックミラーやサイドミラーを確認しました。本当に怖かったです。
金沢の自衛隊駐屯地は比較的標高の高いエリアにあります。17時頃、その近くのドラッグストアで食料品等を購入しました。普段の買い物をしている方もいる様子の方もいらっしゃいましたが、私たちは避難の準備に必死でした。会計の間も揺れ、店員さんが不安そうにレジ業務をされていました。
17:15、津波到着予定時刻が過ぎ、ネット等の情報から、市内に津波が到達したという情報がなかったので、ドラッグストアの駐車場でしばらく様子を見ることにしました。自衛隊も近く、お手洗いも使えるからです。
その後、物資調達の買い物客が増え始め、間もなく商品の購入ができなくなりました。店員さんが謝りながら入店を断っていました。お店のご厚意で入り口付近のトイレを使用することができ、非難の方々で混雑し始めました。
離れて暮らす家族と連絡を取りました。弟家族が初詣に出かけており、神社の境内で動けなくなっていると知りました。なんとか車に戻れないかと祈りましたが、高い場所に避難させてもらえていると聞き、少し安心しました。
18:30頃、店舗が完全に閉店となり、トイレの使用ができなくなりました。
トイレが使えないのでは、ここにいても仕方がないので、移動することにしました。
会社付近に在住のメンバーに連絡したところ、地震直後に会社に様子を見に行ってくれたそうで、会社は問題ないとの連絡を受けました。18:50、私たちは会社に向かいました。
会社の外も中も、壁がひび割れて粉が落ちていました。しかし、水道や電気は使用でき、トイレも使えました。
冷蔵庫の上のレンジや小型スピーカーを床に置いてくれてあり、メンバーの配慮に感謝しました。私たちも少しだけ掃除をし、お湯を沸かしてカップラーメンを食べたました。18:40頃でした。
到着後もたくさんの方からお気遣いのメッセージをいただきました。ありがとうございます。
お仕事図鑑にも出演してくださった株式会社求人の石塚さんはご実家が新潟県柏崎市で、ご家族が2004年に中越地震、2007年に中越沖地震を経験されています。ご経験から、他人事と思えない、とたくさんメッセージを送ってくださいました。
「お水はありますか?」
「大丈夫です、収まりますよ」
「復旧は意外と早いです、大丈夫です」
と何度も励ましてくださいました。
とても心強かったです。
21時頃、大津波警報が津波警報になったことを知りました。
22時頃、SNS等で金沢市内在住の方々の被害があまりないことが伝わってきました。自宅に戻ることを考え始めました。
23時頃、東日本大震災の情報を参考に、地震発生から6時間が経過したので、自宅に戻ることにしました。
23:30頃、自宅に到着し、警戒しながら交代でお風呂に入りました。
避難の荷物を準備して、眠りについたのは1:30頃でした。
寝ている間も揺れましたが、避難に至る程ではありませんでした。
起きると、津波警報が注意報に変わっていました。
ニュースでは被災の様子が映され胸が痛みます。
午後になり、課題の続きをしなければと大学院のサイトに入りました。レポート保存時刻が地震発生時刻と思われます。
忘れられない日時となりました。
改めて、災害は他人事ではないと痛感しました。普段から避難経路や家族との連絡方法の確認の重要性を感じました。
メッセージをくださったみなさま、本当にありがとうございます。
ここから、私にできることを探したいと思います。
もし、大きな力が必要なときは、ぜひご協力をお願いいたします。
長文をお読みいただきありがとうございました。