おば太郎2021年07月11日 19:12
こんにちは、いきなり大雨が降ってきて駅まで傘を入れてくださいと知らぬ人にお願いしたら断られたおば太郎です。
今日は昨日お話ししていた、僕がこれまでの人生を振り返った中での心境の変化についての続きと、これからのことについてお話しをさせていただきたいと思います。
昨日よりは短い文章にできるよう努めます。笑
○僕は何を目指してきたのか。
僕は今までプロサッカー選手を目指してきたり、YouTubeを始めてみたり、芸能界を目指してきたりしてきました。
これら3つの共通点を考えると、
・競争社会
・他者からの評価
この2つがあげられます。 競争社会で勝ち上がり、他者からの評価を得られると喜びを感じて、さらなる評価をもらおうと競争を繰り返していくというようなシステムです。
しかしこれらに上限はありません。
大学サッカーの次はJリーグがその上にはプレミアリーグが続いていますし、YouTubeの登録者1万人の次は10万、100万と上には上があります。
これらを追いかけてしまう理由は他人から評価されたいという承認欲求にあると思います。(僕の場合はそうでした)
さらにSNSはその評価がダイレクトに数値として出てくるので、快楽物資のドーパミンが過剰に出てしまいます。
良い悪いは別として僕は少なからず、このような欲求に突き動かされて、サッカー選手を目指し、YouTubeの登録者数を追いかけ、芸能界を目指していたのだと思います。
つまるところ、行き着く先は他者からの評価で、プロサッカー選手、YouTuber、芸能人になることはその手段でしかないことになります。
では僕はなにになりたかったのかというと、
「何者かになりたかった」
のです、、、
「何者か」が何かは分かりませんがおそらく、
「自分が不特定多数から認められている状態」
だと思います。
こう思うとなんだか虚しくなりますが、僕は「何者かになって認められること」が自分のアイデンティティであり、幸せであると定義していたのです。
○他人の評価軸と自分の評価軸
昨日も言いましたが、僕はここ1ヶ月間ぐらいSNSなどを辞めて、外部との接点を無くした生活を送っていました。
周りを気にせず、だらだら映画をみたり、読書したり、サッカーボールを蹴ったりしていました。 それがが非常に心地良くて幸せを感じていました。
この幸福感は「自分の評価軸での幸せ」であって、何者かになり、認められることで幸せを感じる「他人の評価軸での幸せ」ではありません。
僕は今まで他人との競争に勝ったり、他人から評価されることに対して過度の喜びを感じていて、自分だけで喜びを感じることが少なかったのです。
そのような自分だけで完結する喜びに気づいてからは、何かを目指すこともなく、最低限度の生活でただ自分が好きなことをしていくライフスタイルの方が幸せだし、これからはそんな人生を歩んでいこうと思っていました。
しかし、「他人の評価軸での幸せ」を捨てきれない自分が心の中に残っていました。
僕は今までサッカーという競争社会で育ってきたので、常に他人からの評価や他人との競争が当たり前で、その感覚がまだ心の中に残り、それが何とも言えぬモヤモヤを生み出していました。
昨日も言いましたが、
「今のままで幸せだけど、、、」
この感じがずっと続いた毎日でした。
「身近な喜びで満足な自分」と「何者かになりたい自分」とが混在している感じです。
論理では「何者かになる」ことを目指すよりも、自分の中で完結できる幸せを大事にした方がいいのではないかと思っているのですが、直感的に何者かになった方が幸せなのではないかと思ってしまうのです。
僕と同じような境遇にいる同年代の人たちは結構いるんじゃないかな、と勝手ながら思っています。
このようなことが起こる理由は、SNSなどによって、YouTuberなどをはじめとする成功者が身近に感じられるようになったことで、
「自分でも何者かになれるのでは?」
と思い込みやすく、そのような人たちが評価をされる時代なので、何者かになった先に幸せがあるんだと錯覚しているからだと思います。
(僕だけだったらごめんなさい🙇♂️笑)
○これからについて
今まで話したように、僕には「身近な喜びで満足な自分」と「何者かになりたい自分」が混在しています。
そして、最近ある1つのことを決めました。
「この2つのどちらが幸せなのかを比べたい!!!」
ちょっと何を言ってるか分からないと思いますが、もう少し抽象化すると、
「自分の評価軸での幸福」と「他者の評価軸での幸福」のどちらが幸せなのかを自分の身を持って確かめたいなと思ったのです!!
今のところの仮説では「自分の評価軸での幸福」の方が、なんだかんだ幸せである、という風に思っています。
なので、これから何者かになることで、「何者かにならない方が幸せ」という仮説を検証していきます。
両者を比べるには「何者か」を定義しなければなりません。
そして僕の中で何者かは、
「テレビに10回出ること」
という風に定義しました。
またまた超絶長くなってしまったので、続きはまた明日お話ししたいと思います。笑
今日は昨日お話ししていた、僕がこれまでの人生を振り返った中での心境の変化についての続きと、これからのことについてお話しをさせていただきたいと思います。
昨日よりは短い文章にできるよう努めます。笑
○僕は何を目指してきたのか。
僕は今までプロサッカー選手を目指してきたり、YouTubeを始めてみたり、芸能界を目指してきたりしてきました。
これら3つの共通点を考えると、
・競争社会
・他者からの評価
この2つがあげられます。 競争社会で勝ち上がり、他者からの評価を得られると喜びを感じて、さらなる評価をもらおうと競争を繰り返していくというようなシステムです。
しかしこれらに上限はありません。
大学サッカーの次はJリーグがその上にはプレミアリーグが続いていますし、YouTubeの登録者1万人の次は10万、100万と上には上があります。
これらを追いかけてしまう理由は他人から評価されたいという承認欲求にあると思います。(僕の場合はそうでした)
さらにSNSはその評価がダイレクトに数値として出てくるので、快楽物資のドーパミンが過剰に出てしまいます。
良い悪いは別として僕は少なからず、このような欲求に突き動かされて、サッカー選手を目指し、YouTubeの登録者数を追いかけ、芸能界を目指していたのだと思います。
つまるところ、行き着く先は他者からの評価で、プロサッカー選手、YouTuber、芸能人になることはその手段でしかないことになります。
では僕はなにになりたかったのかというと、
「何者かになりたかった」
のです、、、
「何者か」が何かは分かりませんがおそらく、
「自分が不特定多数から認められている状態」
だと思います。
こう思うとなんだか虚しくなりますが、僕は「何者かになって認められること」が自分のアイデンティティであり、幸せであると定義していたのです。
○他人の評価軸と自分の評価軸
昨日も言いましたが、僕はここ1ヶ月間ぐらいSNSなどを辞めて、外部との接点を無くした生活を送っていました。
周りを気にせず、だらだら映画をみたり、読書したり、サッカーボールを蹴ったりしていました。 それがが非常に心地良くて幸せを感じていました。
この幸福感は「自分の評価軸での幸せ」であって、何者かになり、認められることで幸せを感じる「他人の評価軸での幸せ」ではありません。
僕は今まで他人との競争に勝ったり、他人から評価されることに対して過度の喜びを感じていて、自分だけで喜びを感じることが少なかったのです。
そのような自分だけで完結する喜びに気づいてからは、何かを目指すこともなく、最低限度の生活でただ自分が好きなことをしていくライフスタイルの方が幸せだし、これからはそんな人生を歩んでいこうと思っていました。
しかし、「他人の評価軸での幸せ」を捨てきれない自分が心の中に残っていました。
僕は今までサッカーという競争社会で育ってきたので、常に他人からの評価や他人との競争が当たり前で、その感覚がまだ心の中に残り、それが何とも言えぬモヤモヤを生み出していました。
昨日も言いましたが、
「今のままで幸せだけど、、、」
この感じがずっと続いた毎日でした。
「身近な喜びで満足な自分」と「何者かになりたい自分」とが混在している感じです。
論理では「何者かになる」ことを目指すよりも、自分の中で完結できる幸せを大事にした方がいいのではないかと思っているのですが、直感的に何者かになった方が幸せなのではないかと思ってしまうのです。
僕と同じような境遇にいる同年代の人たちは結構いるんじゃないかな、と勝手ながら思っています。
このようなことが起こる理由は、SNSなどによって、YouTuberなどをはじめとする成功者が身近に感じられるようになったことで、
「自分でも何者かになれるのでは?」
と思い込みやすく、そのような人たちが評価をされる時代なので、何者かになった先に幸せがあるんだと錯覚しているからだと思います。
(僕だけだったらごめんなさい🙇♂️笑)
○これからについて
今まで話したように、僕には「身近な喜びで満足な自分」と「何者かになりたい自分」が混在しています。
そして、最近ある1つのことを決めました。
「この2つのどちらが幸せなのかを比べたい!!!」
ちょっと何を言ってるか分からないと思いますが、もう少し抽象化すると、
「自分の評価軸での幸福」と「他者の評価軸での幸福」のどちらが幸せなのかを自分の身を持って確かめたいなと思ったのです!!
今のところの仮説では「自分の評価軸での幸福」の方が、なんだかんだ幸せである、という風に思っています。
なので、これから何者かになることで、「何者かにならない方が幸せ」という仮説を検証していきます。
両者を比べるには「何者か」を定義しなければなりません。
そして僕の中で何者かは、
「テレビに10回出ること」
という風に定義しました。
またまた超絶長くなってしまったので、続きはまた明日お話ししたいと思います。笑